昭和45年09月28日 朝の御理解



 御理解 第48節
 「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」

 わが子の病気といや親としてはそれこそ、気もそぞろにならんばかりに、心配をするのは当たり前といえば当たり前。ここで神様に一心にお願いをする御縋りをする。それでもやはり不安であるやっぱり心配である。その不安であるという心配であるという、その心がおかげの受けられない元になるのです。そこで言う事を聞かぬ時に、ままよと思うて放っておく様な気になってとこう仰る。中々難しい事だと思います。
 それが簡単な病気があれば、そうでもないでしょうけれども、それが咄嗟の場合であったり、又医者から首をひねられるような状態であったりという時に、放っておくような気になるという事は、これは大抵な修行でなからなければ出来ることではないと思う。いと簡単にここはまぁ、そういう気になってと、云わば例をあげて教えておられる訳ですね。子供が言うことを聞かぬ時に、惟はいくら言うて聞かせても同じ事じゃけんほうからかしとかにゃでけんと一時ばかり。
 そういう時にはそういう気になるけれども、そうではない時にそういう気になれというのですからね。やっぱりおかげを頂いていく一つの機微とでも申しましょうかね。放っておく様な気になって信心してやれとこう仰る。だからこの放っておく様な気になって信心してやれと言う所が大事なんです。最近願いという事が色々言われますが、願いという事は、矢張り繰り返し繰り返しのものでなかなければいけんと思うですね。
 最近私は朝晩の御祈念の内容は、さほどに変わりませんけれども、昼の四時の御祈念は、もうその願いの事だけというてよい程願いの事を繰り返し。いつも三十分に四時の御祈念は三十分に大体何時も、殆ど三十分ですけれど最近はどうしても一時間になる。願ったが最後その願った事が、神様が聞き届けて下さったと言う様な気分がしなければ、立たれない気がするだから願いには、矢張り繰り返し繰り返しというものがある。
 不思議にですねそういう所謂、どうでもこうでもという願いをさせて頂いて、繰り返し繰り返し願わせて頂いて、心の中に神様が受けて下さったという、その心こそがですね、ままよという心なんです。ですから不安で不安でたまらん、心配で心配でたまらんと言うならね、やはり一生懸命御祈念をする、願わにゃいけん。願え願えと言われるから、いろんな事を願うとそれをズラーっと並べて願うと、口でああして下さい、こうして下さいと言うただけじゃだめなんだ。
 やはり繰り返し繰り返し願わせて頂いていくところにです、いわゆる、神様が聞き届けて下さったというような心がする。その心がね、ままよという心。心が安らいでくる。だから、ままよというのは放任と、放っておく様な気と云うておられますが、放っておくような気というのは、ままよという心なんです。子供が病気をする。神様にお取次を頂いてお願いをした。それでも、やはり心配を持って帰る。
 お取次を頂くと同時に、やはりそこに一心不乱が出てくるように、例えていうなら、ひと修行させて貰うてでも、御神前に云わば座り抜かせてもらうと。そういう私は信心が大事だとこう思う。そこから、いわゆる心に、ままよという心が生まれてくる。それがおかげを頂くコツなんです。そういう心の状態に神様はお働き下さる、神様の働きの場というものが出来る訳です。
 昨日もある方が、明日までに五十万か、とにかく五、六十万のお金を払わなきゃならないと。それがもう今度と言う今度は、全然当てがない。先生、どうしたならよいだろうかというお願いを受けました。だから今までは、あそこにも頼んでみろうか、あそこからもまだ借りられると言ったような状態だったのが、今度という今度は、願うところも頼むところも無い。だから神様にお願いするより他にないですねと。
 そうですと。そんなら神様にお任せなさいと。所がその神様にお任せするという事は、そのなかなか難しいですね。神様に任せるという事は、只お願いをしたという事だけじゃない。そこで任せるという事がです、その方は、沢山な人を使ってのお商売です。商売が手につかんごとあるとこう言う。だから、それとこれとは別だと。例えば不安であってもよい、心配であってもよい、けれどもこの事は一つ。
 修行と思うていつもよりも大切にお客さんを大事にするとか、又はその商売にいよいよ思いを込めてするという事をです、商売は手につかん様にあるけれども、商売の方に一生懸命打ち込みなさい。もうとても一日一晩、一生懸命働いたからと云うて、そこに五十何万、六十万からのお金が出来るという事では決してない。けれどもその信心になるという事。所謂商売が手につかんごたるけれども、その商売を実意丁寧に神様の御商売だとして、一生懸命、それに努めさせて頂くという事が神の心に適うのだ。
 神の心に適うからそこから、所謂おかげの元と言った様なものが出来てくるんだと、と云うて私はその取分けその手にもつかん程の商売を、ひとつ綿密に使用人任せと言った様な、自分は頭を抱え込んでおくと言った様な事をせずにです。そういう気にならせて頂きなさい。私はその事をお願いさせて頂いたら、丁度着物を縫うておった人が、針を全部針の山に針を刺しておる所を頂いた。そういう苦しみだろうと私は思うた。
 いわゆる金がない、しかもヤアヤア云うて催促を受ける、もう今度という今度は嘘もきかん、もう万事休すであるもう縫いやめた万事休す。そこで神様にお願いをする、御縋りをするという事になる。それこそ針の山に座っておる様な、云わば苦しさである。そこでその苦しさを、苦しい苦しいから商売が手につかん様にあるけれども、そんならここで神様は商売をひとつ実意丁寧に、その事とこの事は云わば別なんだ、だから不安で不安でたまらない、心配で心配でたまらない。
 けれども修行と思うて、例えば今までとは違った思いでお客さんを大事にする。商売の上にも、使用人任せといった事をせずに、綿密に本気、さあ一晩で、又は一日でそのお金が頂けるという事はない商売によっては。けれどもそれが修行であり、それが信心である。そういう一生懸命な実意丁寧な、云わば生き方になるという事がです、不安でたまらん、心配でたまらんのだけれどです、商売が手につかん様にあるけれども、その事が神の気感に適う、神の心に適う。
 もう今更バタバタしたっちゃ同じ事じゃけんという事ではいかん。やっぱりその商売を実意丁寧にやらしてもらう、その事を修行とさせてもらう。そういう云わば生き方。そこには、例えていうと、不安でもある、心配でもある。仕事は手につかんようにあるけれども、その手につかんごたる仕事を、一生懸命に実意丁寧を込めてするという事は、神様の心に通う、いわゆるおかげのルートが出来る。
 ここはいわば放っておく様な気という事ではない訳です。信心に本気で取り組むという事なんです。一生懸命に例えば御祈念をする、腹が出来るままよという云わばどん腹が出来る、云わば度胸が出来る。それは一生懸命御祈念をする、いわゆる御祈念をするという事は、繰り返し繰り返しお頼みをする、お願いをする一心に縋ると。縋っていくうちにです、心の中にすがった事を、神様は聞いて下さったと言う様な心の状態になれる。そういう状態の時に、おかげのルートが又出来る。もうひとつはいわゆる放っておく様な状態をです、自分の演出によって作ることが出来る。
 私はその方にその話をさせて頂いた。今日はどうしても二十何年前の話です、一万円お金を持って、善導寺の方へ帰らなければならない約束がしてある。もう何回も何回も嘘になっておるから、今度という今度は持って帰らなければ、云わばどうにも顔がない。というて行かんでおればいいけれど、御月次祭でありますから、どうしても行かなきゃいけん。だから善導寺に帰らして頂くのに、どこに集金に行く目当てもなかなければ、商売をしてどうという事も出来ん。
 もうそれで長浜町から荒戸の教会まで、行っては帰り行っては帰り、いわゆるお百度踏む様なこと。もうそうするより他にない。もうぼちぼち帰る用意をしないと、お祭りに間に合わない。もう一辺お参りしようと云うて又それから、お参りをさせて頂いたいわゆる三度目のお参りをさせていて頂いた。そして御祈念をさせて頂いてお縋りをし、それでももう不安でたまらない、不安が無くなるという事はないけれどもね。
 一生懸命お参りさせて頂いて、それから御祈念が終わってどうにももう仕様がない。そう思うて荒戸の教会を出て、電車通りに出るひとつ手前の十字路のとこまで来た時に、もうそれこそ、びっくりする様に珍しい人に出会った。というのは私がもう何十年会っていない。いわゆる北京に行く前に会ったきりの椛目の私の小学校の子供の時の友達。小学校は一つ下でしたけれど、大変仲良くしたおった友達に出会った。
 椛目に生野という自転車屋さんがありますが、あちらの弟さんに当たる方なんです。福岡に出てきておるという事は、知っておったけれども、わざわざ訪ねて行こうという気もしなかった時代ですからね。二人共もうそれこそ何十年振りの出会いですから、お互いの無事を喜び合って、とにかく私げに寄らんのと。すぐそこの荒戸から近い唐人町という所に、いわゆる松岡さんの所のすぐ近所におるというのです。
 とにかくちょいと寄らんのと。いいや今日はもう椛目に、何時の電車で帰らなければ間にあわん。何が間にあわんとかち。実はお月次祭であるし、今度の月次祭に帰る時に、金をちっとばかり持って帰らねば、約束をしておる人があるから、どうでも金が要るからというたら、いくら要るとのと言うから、一万円。そんなら丁度よかったち言うて、自転車に、弁当箱位のをひとつ付けちゃりますもん、昔のは百円札ですからね。
 その時分は丁度弁当箱位の太さになる訳。丁度私が集金してからここへ一万円持っとるけんで、まあとにかくそれでん寄らんの、お茶一服上げたいからと言うてから、もうすぐ傍ですから寄らして頂いた。お茶一服頂いてからそれこそ一万円のお金を頂いて、それから一生懸命帰ってようやく電車に間に合う。ようやくお月次祭に間に合う。と言った様なおかげ約束も果たす事が出来たと言う様なおかげ。
 まあそういう意味でのおかげなら、もう本当に限りがない程頂いております。もう宅祭りを椛目でさせて頂くという。もうそれこそ宅祭りをさせて頂くと、もうそれこそお粥さんばっかり頂きよるもんですから、お参りして来た方達の御直会には、お茶粥さんでも上げればいいと言う位な気持ち。けれども本当にですね、本当に海山川の草々のものが集まっとりましたね。これはもう不思議でした。
 けれどもやはり色々買うてお供えしなければならんのもありますからね。又、親先生がお出でて頂くのですから、親先生だけはどうとか御直会の格好をつけなきゃなりませんからね。もうそういうぎりぎりの時までですね、私は御商売、もう御商売は出来んのですよね、もうどう回っても回っても出来ん。そらどこへ行ってみようと思うて行ってみて出来んとすぐ今度は、櫛原の教会まで行く。
 もうその時はどうして七八回位お参りしたでしょう。とうとうお賽銭が無くなった。もう一番最後の時それからがっすぇの中に手をつっこんだら、あの時分に証紙というのを買い物をすると、切手の様なものを貰いよりました証紙が何枚か入っておった。その証紙が神様へのいうならお供えでありお賽銭であった。その時にですね私の心に例えば、百円のお賽銭が出来ても、出来る様になってもその当時ですよ出来てもですね。
 いわゆるこの証紙をお供えしておる時の様な気持ちで、神様相済みませんと言うて、お供えさせて頂けるような気持ちで、例え是がどんなに儲けだして、百円のお賽銭が出来るようになってもです。この時のこの証紙をお供えしよる、その気持ちを忘れるなという意味のことを頂かせて頂いた感じがした。もうその事が有り難かったです私は。そしてここに行ったって駄目だと思いよる所へ、私はちょっと寄らせて頂いたら、そこで丁度私が商いをしようとしておる話があっておった。
 それからそん話なら私がと言うて、そんならと言うてもうそこでじゃないけれども、その次の所でそこからの紹介で、もうアッという間に相当の商いが出来た。商いが出来て勿論そのお金で買い物をしたり、色々したりして帰らせて頂くと言った様にですね。ですからその是はもうどうにも手の打ち様がないという時には、もうお参りするより他にないです。だからそのお参りするより他にないという、そういう時に心の状態がね、放って置く様な心と言う様なものが、それによく似た心が生まれて来るのです。
 ですからそういう時に、只頭を抱え込んでどうにも出来ないというておるだけじゃいかん。もうとにかくぎりぎりまで、神様にお縋りをすると。例えば御本部参拝の時、月参りなんかの時なんかはもう本当にちょいちょい、そういう例は御座いましたですね。お弁当持って雑のうかろうて教会までは行っとる。もう私が色々御用させて貰いよるから、皆んなの色んなお世話をさせて貰いよる。それでもう皆んなは、私が旅費が出来たもんだと思うている訳ですよね。
 草野の山口つぁんという方が、私が雑のうからうてもう、、御本部へ参る用意をして来とるおるもんじゃから、ははぁ旅費が出来たなと、思ったわけでしょう。ですから「大坪さん、おかげ頂いたばいの。」ち言われる訳です。「何がですか」「旅費のほうおかげ頂いたつじゃろうもん」という訳です。そげな段じゃなか、まあだ払い込みは出来とらん。そればってんまだ駅に行くまでは、まあだあるから、善導寺から。それまでは、あそこまでついて行くという気持ちなんですよ、やっぱり。
 その私と山口つぁんの話を、横で聞いておった人があった。それが正義さんの姉さんです、しげるさん。お参りをしようと思うとったけれども、お参りが出来なくなったという断りに来とるところじゃった。だから、私が払い込んどりますから、それでお参りしてくださいちいうことだった。もう間一髪ですよね。ですからもう、そうするより他に、例えば、もうお参りが出来んけんと云うておったら出来はせんとです。
 私は、おかげを頂くということは、只今、私が、コツあいというか、いろいろ申しましたが、その中にです、ままよという心が、とよく似た心が生まれて来るんです。一生懸命拝む、一生懸命頼む、願った上にも願わせて頂くところから、神様が、いわゆる最近ここで願えと言われるのは、そういう願いなんですよ。願うときゃよか、願いよるじゃいかん。もう御祈念をするたんびに神様が聞き届けて下さった、聞き届けて下さったという気分のするところまで御祈念をせにゃいかん。
 それがまさかの例えば、昨日の何十万というもう明日まで手の打ちようがないと言う様な場合等は、只今申しますように自分の商売も手につかんごたるけれども、その商売に一生懸命に実意丁寧の限りを尽くしてその商売を。それは不安で堪らん心配で堪らん。けれども商売、いつもより、目細うやっていく。そういう心が、そういう実意丁寧な心が、神様の心に適うて、おかげのルートが出来ると言う。
 どうにも仕様がないならば一生懸命参るそれこそ、何十年振りに会うた人がちゃんと私の為に一万円集金して下さっとったという、だからおかげは絶対にそこにある願えば。それをそのおかげのある所まで行き来らんだけの事なんだ。という確信を持たなきゃいけません。お互い所謂イライラする。例えば急いでここから久留米まで行こうと思う、ところがもうバスがもうほんな出た後であった。
 走って追いかけて行こうごたるけれども、もう間にあわん。そういう時にはもう気が気じゃない、もう三十分も待たなならん、もうそれこそ、吉井行きが来るとその吉井行きにでん乗ろうごたる気がするです。そういう衝動が起こって来る。そういう時に失敗をするんです。私共があんまりイライラ、おかげのイライラをしておりますとですね、反対の事をしてしまう様なことがある。
 そういう時にです矢張り落ち着かなきゃならんという事を、色々な例を持って今日は申しました。例えばそういう時にです、例えば成る程イライラする、本どん読む段じゃないけれども、本ども出して本を読んでおるとか。女の方なら電車の中やらでこうやって、編み物なんかしてるでしょう。その編み物なっとんしておると、そこにちょっとその三十分間の時間というものが、アッという間に来る様な気がする。
 その気がその心がね、おかげを頂く基になるとです、間違いのない道を間違いなしに久留米に行けれるおかげが受けられるのです。それを吉井行きに乗る様な事をするような場合が、私共の上にはいつもありますよね。いわゆるおかげを頂くひとつのコツ相とでも申しましょうか。そのコツ相というのですから、コツを会得する体得するという事は、並大抵の事ではありません、やはり難しい。
 難しいけれども、ここで教祖様は例を取っていうておられる。子供が例えば病気の時に、うろたえるなという事です。うろたえて、例えば頭に効く薬を尻の方に効く薬どん飲ませたらどうなるですか、うろたえちから。そういう事をしでかすのです。だからそういう時に、その子供が、言うても言うても、言うことを聞かん時に、もうかまわん放っとくぞというような心になるという事。
 しかもそういう心になって縋ってやれと、こう云うておられる、そういう心の状態が、おかげを頂く元。大変難しい事なんだ。難しいことだから、様々な工夫がいる、様々な、いうなら今日私が、いくらも申しましたですね。そういう事に取り組ませて頂くという、そこから心の中に、安らぎとも、安心とも、又はこれは、ほんに、くそ度胸じゃなかろうかと思う位に、度胸というものが据わってくる。
 そういう心の状態の中にです、神様とのおかげの交流する道が開けてくる訳なんですね。願う願うという事が云われますけれども、願うというても、だから、どうでもという願いを立てなければならん、そして只今申しました様な工夫がいるのです。只毎日参って願いよる、お願いが出来るようになったと言うた。そういう願いじゃいかん、願ったからには、そういうひとつの工夫、姿勢というものを作る。おかげの受けられる心の状態というものを作る工夫が大事だと思うですね。
     どうぞ。